2009年8月20日木曜日

Equal原稿:2008年10-11月執筆

<著作権注意>

Equal 07(金沢のアート冊子)掲載
http://kanazawa-calendar.com/
※掲載時の原稿とは若干異なっている場合があります。文字の修正等

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<アートプロジェクトは経済発展の夢を見るか?>
宮本 初音
(ミュージアム・シティ・プロジェクト/オハツ企画)

 「アートプロジェクトって、田舎でやってるっていうイメージがあるんですけど」。
 3ヶ月ほどまえリサーチにやってきた、関東在住の学生さんがポロッと口にした言葉である。
 彼はまちなかでおこなうアートプロジェクトについて質問しようとしていた。アート系NPOに所属しており、けっして門外漢ではない。でも彼にとってのアートプロジェクトって<町おこし>なんだ…。さぁどうやって話を始めよう?

 世界一斉株安で大恐慌寸前、アソウ首相が総選挙より景気対策をという西暦2008年秋。でも、景気はもっと前から、何年にもわたって深刻だった。東京のひとたちが「地方」と呼ぶエリアでは。
 華やかりし駅前商店街はシャッター街になってしまった、そこにアートスペースをつくって、地元大学や美術系の学生とアーティスト(できれば海外)が共同制作し、近隣住民にワークショップ参加してもらう。最近のアートプロジェクトでこういった図式にはまるものは少なくない。そしてそういうプロジェクトは高齢化・過疎化しつつある地域を元気づける役割を、じゅうぶん果たしているだろう。
 10年ほどまえ、欧州の事例で「犯罪が激減した」「雇用が創出された」「ひとびとが生き甲斐をもった」「高齢者を敬うようになった」というアートプロジェクトの感動的な成果を聞いた。我が国でも現代美術やコンテンポラリーダンスなどを軸に、いまやこの「波」は全国各地で見ることが出来る。

(もっともプロデュースしているのは、たいてい東京界隈で仕事をしている人だったりするのである。地方美術館の学芸員だって東京の大学出身者が圧倒的だから今更ですけどね。この問題は後述)

 さて、しかし、困った。
 アートプロジェクトってそういうものだったんだっけ?
 ナニカの役に立つこと、だったのか??
 アーティストが、地域社会の問題点や特徴に着目して作品をつくっていく、いままでの手法によらない工夫をして、なんらかの問いかけや新しい視点を投げかけて行く、そういうのが「プロジェクト」(投影)だったのでは???
 うーん?

 私は九州の福岡に住んでいる。
 福岡は、ここ三十年ほど九州の商業的な中心で、週末になると九州一円からワカモノが買い物を目的に集まってくる。ライブや展覧会の数も九州内ではダントツである。つまり「地方」であるとともに「中央」でもある。
 この消費ゾーンの真っ中心=「天神」を会場に現代美術の国際展「ミュージアム・シティ・天神」(MCT)がスタートしたのが1990年。「ミュージアム・シティ・プロジェクト(MCP)」の主催により、このあと十年にわたり「都市のなかのアートプロジェクト」をビエンナーレ形式でおこなったのだった。行政(福岡市、文化庁等)や企業(地元商店街含む)の支援も受けた。会期中は美術館やギャラリーと連動してアート月間として盛り上がるような工夫もおこなったし、まちづくり団体や教育系NPOとも連携した。(注:MCPは非営利の実行委員会組織として、アーティスト・行政・民間の有志により構成。最近ではアートNPOとも呼ばれるが法人格はない。)

 繁華街(商業エリア)を会場にするということは、季節ごとにどんどん流れゆく広告の刺激的なイメージのなかでコンテンポラリーアートがどう成り立つのか、ということが問題になる。成功していたといえる作品は「まるでディスプレイのように」商品と違和感がないものであったり、「ありえない」というようなスペクタクル性が体感できるものだったように思う。
 しかし、繁華街での展示のミソは必ずしも視覚刺激のバトルではなくて、その背景にある都市のシステム、つまり利用する人々の活動に焦点をあてることであるはずだった。
(結果的にこれは、メインのビエンナーレ型プロジェクトが終了したのちに挑戦することになった。アートバス、アートスクール、アートホテル、アートセンター構想などの例である。)

 古い民家、美しい自然、廃墟になった産業遺構、ちょっと荒んだかつての歓楽街。こういったものを背景にするとコンテンポラリーアートは、けっこうゲンキづいて見える。福岡でも「博多部」という歴史ある地域を会場にしたときは、史実や伝統を糧に作られた作品もあり、住民の皆さんからの温かい協力や励ましはとても身に染みた。
 しかしこればかりをおこなってゆくのは企画としてNGなのではないか、思わせぶりな背景を使って実力以上に見せているだけではないか、そういう問は常にまとわりつく。
 
 あらためて最近の動向を眺めてみると、「田舎」、もとい、「地方」だけでなく、大都市圏でも昨今はビエンナーレ・トリエンナーレが花盛り、ついでにクリエイティブシティなどと称されて、自治体の施策ビジョンに描かれるなど新しい都市の未来像とまでなっているところが絶賛急増中である。
(もっとも、そのお手本は地道に何十年も活動を続けた欧州の「地方」都市だったりするのだが)

 大きな街にも現代では忘れられつつある歴史や伝統がある。それを取り上げる手法は、この手のアートプロジェクトものでは既に常套化していると言ってよい。
 コンテンポラリーアートは最初のうち、歴史モノ、伝統モノと、(一見)とても相性がよい。裏に隠されたコンセプトを苦労して読み取らなくてもいいので地元の関係者も喜ぶし、アート関係者にとっても新発見が多い。しかしアーティストの個性が明確なものは寧ろ少なくなっていないか? 単なる「調査」「研究」の発表とどこが違うのか? 作品制作の手法として、模倣を重ねているだけではないか?
 わたしたちは九州の、アジアの、ヨーロッパの、中南米の、いたるところのアートプロジェクトで「その土地の特徴を活かした」という、見覚えのある作品に出会うことができるだろう。

 「まち」とパートナーシップを繋ぐこと自体が問題なのではなく、アート側が状況に甘えていないか、行政側はあいかわらず「文化芸術はわからんのですが」といいながら利用しすぎていないか。功利主義という軸からアーティストは外へスピンしはじめるだろう。そのとき「まち」はアートに裏切られたと思うだろうか?
(ただしアーティストも、アートのためのアートになることを慎重に検討しなければ再び過去の轍)

 さて、アートプロジェクト10年説、というのを聞いたのは1990年代なかばごろだった。(誰が言い出したのか、忘れてしまったので出典は明記できない。)
 最初の3年は上り坂、目指すところへたどり着くために試行錯誤する。次の3(〜4)年はだいたい横ばい、最初に考えていたことに近いことが出来てきて充実してくる。そのあとの3年は下り坂、どうやって終結させるかを考え始める時期。

 アートプロジェクトに限らず、物事を成し遂げるときのスパンだという人もいる。また、美術史的に十年以上活気が続いた芸術運動が見あたらないという説もある。
 ともあれ、現実的に十年経つと、スタッフも十歳ふける。二十代なら三十代、四十代なら五十代。当たり前だがその間、人生は進行している。結婚、出産、就職、引っ越し、親の死、子どもの進学などなど。支援してくれていた役所や企業のひとも間違いなく異動になる(昇進・退職含む)。当初中学生だった観客なら、大学を卒業している。首謀者がどんなに頑張ろうとも同じモチベーションで継続できるわけはない。

 始めた頃の勢いは必ず失われる。しかし、それを予感しつつ、次の十年、あるいはその先を考えてゆくこと必要になってくる。ここで街の仕組みとの関係が重要になってくる。
 アートプロジェクトとして始まったものであっても、集客的に成功したり、コンセプトが明快なものは徐々にアーティストの手を離れ「代理店的な組織」がおこなうようになっていく。役所のなかに部署が新設されるところもある。
 抜け落ちてゆくのは、面倒な「お勉強」や地道なネットワーク作りである。消費が早い昨今はアーティストもアイドル的な人気が重視され、つぎつぎとスターを「発掘」せねばならない。「育成」といいながら、蕾のうちに手折るようなシステムが横行している。

 福岡の場合は、芸術系専門大学がないため(学部はある)、MCPでは90年代後半から、アートセンター構想や教育機関の提案や、イベント的にこれらのプロジェクトをおこなってみたが、恒常的な場所としてはいまだ実現できていない。これによりアイカワラズこの地では「批評」の不在、新人作家の実力アップが不十分、アート系人材の流出などが問題点となっている。
 先に書いた、「東京発」の企画でなく、その土地で発する企画力をつけるために、恒常的な教育システムの整備(継続運営)は重要なのである。

 私は「まちと関わるアートプロジェクト」とは「まちの夢」のようなものだろうと考えている。アーティストのワケワカラン話に、役所の人も企業の人も新聞社さんも商店街の会長さんも食堂のおばさまもタクシーの運転手さんも、つまり遠く近くプロジェクトに関わるひとたちが、それぞれ勝手にそのプロジェクトへ幻想、自分の夢を投げかける。それが機能している間、アートプロジェクトは進んでゆくだろう。
 それぞれの夢は、やがて違う方向へ走り出す。そしてその先の夢は・・・?

 アーティストの本当の仕事、アートプロジェクトが醸しだす未来というのは、そういった先の先へ夢を描くのが仕事ではないのか、と思う。「ナニカ」の先のその先へ。言葉にならない、成果にならない、ナニカの兆しをとらえること。
 冒頭の学生さんへは、アートプロジェクトは「田舎」でおこなわれているのでなく、夢を失いかけたところへ新しい夢をしかける作業なのだと説明すればよかったのか。

 そして、このテキストを書いている間に、わたしは別府で2009年4〜6月におこなわれる「別府現代芸術フェスティバル2009 混浴温泉世界」の事務局仕事を正式に引き受けることになった。
 中心市街地活性化と地域の歴史や特性を活かし、地元行政や企業、大学と深く結びついたフェスティバル。首謀者は同県出身者のアーティスト山出淳也(NPO法人BEPPU PROJECT)であり、総合ディレクターは芹沢高志(P3 art and environment)。現代美術をメインに据え、海外から9組の作家を招聘し現地滞在制作をおこなう。コンテンポラリーダンスの「踊りに行くぜ!」も主要プログラムであり、このほか映像や音楽イベントもてんこもり。大分県初の国際芸術祭と銘打たれている。
 国内外のアートフェスティバルの狂乱が反省され、アートバブルも崩壊しつつある現状、BEPPUでどんな夢をつむぐのか。ここでのプロジェクトは、「祭りのあと」を考えながら進行している。そして、運営サイドや住民の意図を超え、参加アーティストや観客たちが、その先を示してくれるに違いない。「祭り」にはそういうチカラがある。

 横浜で、金沢で、広島で…。今年もたくさんのアートとまちの夢がつむがれている。問題点があったなら、それもまたアートの糧になってゆくだろう。
 アーティストの描く夢は、長くシツコク果てしない。

2008年10月

*写真
1 母里聖徳 作品(1990年)警固公園・福岡
2 池水慶一 作品(1994年)姪浜人工海浜・福岡
3 冷泉藝館 3daysアートセンター(2001年)旧冷泉小学校・福岡
4 天神芸術学校(2002年)イムズ・福岡
5 鉄輪地区の風景(2006年)別府
6 platform01外観(2008年)ソルパセオ銀座通り・別府

*参考文献
「ミュージアム・シティ・プロジェクト1990-200X」(山野真悟、黒田雷児、宮本初音)2003年、ミュージアム・シティ・プロジェクト出版部 ※品切

「アート・デザイン・クロッシングvol.2 散乱する展示たち」(古賀徹 編著。佐々木喜美代、後小路雅弘、宮本初音、吉田修一)2006年、九州大学出版会

*プロフィール
みやもと・はつね。
アートコーディネーター、インディペンデントキュレーター。
1962年生まれ。福岡市在住。主に現代美術プロジェクトのプロデュースやコーディネートをおこなう。
2008年10月現在、ミュージアム・シティ・プロジェクト事務局長、「ギャラリーアートリエ」企画ディレクター(福岡市文化芸術振興財団より委託)、オハツ企画 代表(アート・アパート88代表、アート・ベース88代表)「別府現代芸術フェスティバル2009 混浴温泉世界」副事務局長。このほか2009年は「西天神芸術センター」を計画中。

2008年10月
[文中敬称略]

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